祇園祭

本日は不動産に関連する記事ではなく、日本が誇る文化である『祇園祭(ぎおんまつり)』についてご紹介をさせて頂きます。

そもそも、祇園祭って何?

祇園祭とは、
祇園祭の由来は今からおよそ1,100年前、平安時代に京都で流行した疫病を鎮めるため、「祇園社(ぎおんしゃ)」(※現在の八坂神社)にて66本の鉾をつくり疫病の退散を祈願したのが始まりです。 その後、政治的な問題から祇園祭中止の命令が出ることもありましたが、存続を訴え続ける町衆の熱意により、現代まで継承されてきました。

1100前の清和天皇の貞観11(869)に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出ました。 そこで66本の矛を立て、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑(中京区御池通大宮)におくり、悪疫を封じ込む御霊会をおこなったのがはじまりであると伝えられています。

祇園祭って何をするの?

祇園祭は、全国でも珍しい1ヵ月間もあるお祭り。 美しい山鉾(やまほこ)が街中を巡行する様子や力強く迫力ある神輿を見ることができるメインといえる行事は、7月17日の前祭(さきまつり)と24日の後祭(あとまつり)です。

平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だっ神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈っことが始まりとされる。 応仁の乱(1467~77年)で祭りは途絶えが、1500(明応9)年に町衆の手で再興され

神事っていうけど、どんな神様を祭るの?

八坂神社の神様は、スサノオノミコト(素戔嗚尊)とその奥様であるクシナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、そして8人の子供たち(三男五女)ヤハシラノミコガミ(八柱御子)の三座です。

もっと詳しく、分かりやすく!

その昔、平安京が造られる際に、最強の風水の地として選ばれた場所が現在の京都盆地でした。
実際に1000年間首都であったところは世界を見渡しても例を見ない事であり、あらゆる災厄から逃れるとされた場所であったのでしょう。
京都盆地は陰陽道(オンミョウドウ)による、四神相応の地とされ、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の四神に守られた場所とされ平安京が造られました。

古来より大地のエネルギー「気」を龍に見立て、「気」が集結されるところが龍の棲む龍穴とされててきました。龍穴は清らかな水で潤されていなければ「気」が枯れるとされ、八坂神社は青々とした水をたたえる池に建てられており、古来よりその池が龍穴とされています。

八坂神社は、
素戔鳴尊(スサノオノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコカミ) を祀っています。 古事記や日本書紀でも伝えられ日本神話で知られるように、素戔鳴尊(スサノオノミコト)は八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、櫛稲田姫命を救って地上に幸いをもたらした偉大な神様でありました。

八坂神社の歴史は平安京建都の約1500年前ー斉明天皇二年(656)に、素戔鳴尊をこの地に祀ったことにはじまります。のちに“神仏習合思想”により素戔鳴尊は祇園精舎の守護神の牛頭天王と一体視されました。
都の発展とともに日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3,000の分社が
日本全国にあり、祇園祭りに習った祭事も行われています。
八坂神社はながらく「祇園社」、「祇園感神院」などと呼ばれていましたが、神仏分離によって、明治4年(1871)に「八坂神社」と改称されました。

古くは祇園御霊会と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行しました。
「これは牛頭天王(ごずてんのう)の祟りである」として平安京の広大な庭園であった神泉苑に当時の国数の66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿をも送って、災厄の退散を祈りました。後に経済的に力を持つようになっていった町衆の台頭で次第に豪華な鉾が造られ規模も大きくなり、現在の形になりました。
それ故、豪壮かつ華麗な祇園祭は歴史的にも古く規模としても壮大で知られ、文化的価値が海外からも関心を持たれています。

蘇民将来伝説(そみんしょうらいでんせつ)

昔々一人の貧しい旅人が巨旦将来(コタンショウライ)・蘇民将来(ソミンショウライ)の兄弟に一夜の宿を請いました。ですが、兄の巨旦将来は富栄えていたのにも関わらず拒否しました。
弟の蘇民将来はとても貧しかったのですが、粟がらを敷き、粟の粥で暖かくもてなしました。
翌朝旅人は「我はハヤスサノヲの神である。後世に疫病が流行した時、蘇民将来の子孫と名乗り茅の輪を腰につけていれば災厄を免れる。」と約束して立ち去りました。
その旅人こそ、八坂神社の祭神“素戔鳴尊”(スサノオノミコト)だったのです。
後に疫病が流行ったとき、巨旦将来の子孫は死に絶えましたが、蘇民将来の子孫は疫病を免れ代々繁栄したということです。
この故事にちなんで祇園祭りの疫病退散の印としてお祭で“蘇民将来子孫也”(そみんしょうらいしそんなり)と書いたものをの身に付けたり、素戔鳴尊のご利益のお守りとされている茅の輪が始まりとされる粽(ちまき)のお守りを家の玄関につけたりするのが慣わしです。

【自分達が担ぐ神輿の神様は?】

①屋根に鳳凰をのせ、その口に(五穀豊穣)をくわえ、六角形をした神輿には、八坂神社の主祭神素戔鳴尊(すさのおのみこと)をおのせします。 八坂神社御本殿中央にお祀りするため、 中御座とも申し上げ、明治維新までは牛頭天王 (ごずてんのう)とも申し上げました。
豊臣秀吉の母大政所の住む地に中御座の神輿が渡御したことに因み、 素戔鳴尊を「大政所」とも称します。ミコトはふりかかる八俣大蛇退治の強い神さまと いえばご存じでありましょう。
ミコトはふりかかる災厄を克服する強力な神威の神さまです。
この中御座の神輿には古来より上久世の駒形稚児が騎馬にて供奉することが慣例となっています。 胸に駒形をつけたこの稚児は素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)の化身とされ、 神輿の和魂(にぎみたま)と一体となって神輿の巡行が出来るといわれています。

②屋根に宝珠をのせ、四角形をしたこの神輿には、御祭神素戔鳴尊の后神・櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと)をおのせします。八坂神社本殿東側にお祀りするため、 東御座とも申し上げます。
素戔鳴尊櫛稲田姫命の夫婦の契りは、あらゆる困難も克服する深い慈愛で固く結ばれています。 櫛稲田姫命は、「歳徳神(としとくしん)」ともよばれ、歳ごとにお恵みを与えてくれる恵方の神さまでもあります。
少将井とよばれる霊験あらたかな井戸に、 東御座の神輿を据えたことから櫛稲田姫命を「少将井」とも申し上げます。

③屋根に鳳凰をのせ、八角形をしたこの神輿は、 御祭神素戔鳴尊と后神・櫛稲田姫命のお子様 八柱御子神(やはしらのみこがみ)をおのせします。八坂神社本殿西側にお祀りするため西御座とも申し上げます。
八柱御子神は、八王子・八将神ともよばれ、 四方八方を司る邦楽の守護神でもあります。
あらゆる方角を守護し、正しい道へとお導きくださる神さま、それが西御座、八柱御子神の神輿です。

 

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